九月は「りりりりり」
2009年9月5日土曜日 14:20
「音の歳時記」 那珂太郎。
本日の天声人語で知りました。
一月 しいん
石のいのりに似て 野も丘も木木もしいんとしづまる白い未知の頁
しいんーとは無音の幻聴 それは森閑の森か 深沈の深か
それとも新のこころ 震の気配か
やがて純白のやははだの奥から 地の鼓動がきこえてくる
二月 ぴしり
突然氷の巨大な鏡がひび割れる ぴしり、と きさらぎの明けがた
何ものかの投げたれきのつけた傷? 凍湖の皮膚にはしる鎌いたち?
ぴしりーそれはきびしいカ行音の寒気のなか
やがてくる季節の前ぶれの音
三月 たふたふ
雪解の水をあつめて 渓川は滔々と音たてて流れはじめる
くだるにつれ川股に若草が萌え土筆が立ち 滔々たる水はたふたふと和らぎ
光はみなぎりあふれる 野にとどくころ流れはいっそう緩やかに
たぷたぷ たぷたぷ みぎはの草を浸すだらう
四月 ひらひら
かろやかにひらひら 白いノオトとフレアアがめくれる
ひらひら 野こえ丘こえ蝶のまぼろしが飛ぶ
ひらひら空の花びら桃いろのなみだが舞ひちる
ひらひら ひらひら 緩慢な風 はるの羽音
五月 さわさわ
新緑の木立にさわさわと風がわたり 青麦の穂波もさわさわと鳴る
木木の繁りがまし麦穂も金に熟れれば ざわざわとざわめくけれど
さつきなかばはなほさわさわと清む
爽やか、は秋の季語だけれど 麦秋といふ名の五月もまた 爽やか
六月 しとしと
しとしとしとしとしとしとしとしと
武蔵野のえごのきの花も 筑紫の無患子の花も 小笠原のびいでびいでの花も
象潟の合歓の花も うなだれて絹濃のなが雨に聴きいる
しとどに光の露をしたたらせて
七月 ぎよぎよ
樹樹はざわめき緋牡丹は燃え蝉は鳴きしきる さつと白雨が一過したあと
夕霧が遠い山影をぼかすころ ぎよぎよぎよ 蛙のこゑが宙宇を圧しはじめる
月がのぼるとそれは ぎやわろっぎやわろっぎやわろろろろりっと
心平式の大合唱となる
八月 かなかなかな
ひとつの世紀がゆつくりと暮れてゆく 渦まく積乱雲のひかり
光がかなでる銀いろの楽器にも似て かなかな かなかなと
ひぐらしのこゑはかぼそく葉月の大気に錐を揉みこむ
冷えゆく木立のかげをふるはせて
九月 りりりりり
りりりりり......りり、りりり......りりり、りり......り、りりりり......
あれは草むらにすだく虫のこゑか
それとも鳴りやまぬ耳鳴りなのか
ながつき ながい夜 無明長夜のゆめのすすきをてらす月
十月 かさこそ
あの世までもつづく紺青のそら
北の高地の山葵色の林をしぐれがさっさつと掠めてゆくにつれ
幾千の扇子が舞ひ梢が明るみはじめる
地上にかさこそとかすかな気配
栗鼠の走るあし音か 地霊のつぶやきか
十一月 さくさく
しもつきの朝の霜だたみ 乾反葉敷く山道を行けばさりさり
波うちみだれる白髪野を行けばさくさく
無数の氷の針は音立ててくづれる 澄んだ空気に清んだサ行音
あをい林檎を噛む歯音にも似て
十二月 しんしん
しんしん しはすの空から小止みなく 白模様のすだれがおりてくる
しんしん茅葺の内部に灯りをともし 見えないものを人は見凝める
しんしんしんしん それは時の逝く音 しんしんしんしん
かうして幾千年が過ぎてゆく
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月毎にイメージする音をタイトルにする,というところからして参った。
詩人の感性ってすごい。
こんな言葉が紡げる人には,世界はきっと違って見えてるんだろうなあ。
そうした人の作品に触れることで,疑似体験をさせてもらえるのだとしたら,せめて共感できるだけの感性は持っていたい。
お久しぶりです。
日本語の感性、シンプルな言葉ばかりなのに、とっても心に響きますね。
感覚ですぐホントだわ!と分かる感じです。
日本語って美しいなあ、と日本語以外の言語を話していると特に感じますし、忘れたくないな、と思います。
まあ、日本でも世代によっては美しい日本語を話さなくなってますけれど、残念ですよね。
またこんな発見がありましたら、是非紹介して下さいね。